また現にその付近に陵墓がなくても、もと陵墓の付近にいた守戸が、陵墓の荒廃の為に扶持離れがして来る、人口が増して生活に困って来るとなっては、他の村 落の付近に移住して、その村の用を足すの賤民となったのも多い事でありましょう。されば後世の夙が、必ずしもことごとく守戸であったとは言えませぬが、本 来の夙は守戸で、それは良民であった。それが執る職務が賤しかったが為に、遂に賤民になったというの事実は、否定し難いと存じます。そしてこれは貴賤が必 ずしも民族関係の意味からではなく、職業からその区別が生じたという最も好い例だと存じます。
一 散所 山科行時 淀左方 能武右方 武茂 同国宮方政所 摂津国山崎政所京極殿堂領政所 同国草刈政所 この記事やや了解に苦しむところがあるが、けだし淀及び山崎ほか三ヶ所の散所などが、鎌倉初期において近衛家の所領であったことを示したものと解せられ る。この場合において散所は、すでに一定の地に住み着いていたもので、その名称の下に記入してあるものは、けだしその支配者の名であろう。中にも淀の散所 は、左右の二つの組に分かれていたものらしい。
したがってこの江戸時代の実際をのみみる時は、柳田君がその文字の算所とあるところに目をつけられて、陰陽師の算の方に解説を求められたのはごもっともで ある。沼田君から示された見聞録にも、「勘定致候処也」など説明してあるのである。そして『賤者考』などが産所の文字から、産小屋の地に渡り陰陽師や渡り 巫の徒の住みついたと解したのにも、また確かに一往の理屈はある。自分が他のサガリ者の傍例からして、婦人を家族の表役者とする神子筋のものをもって、
右は今までに管見に及んだ限りであるが、このほか三条とか三所とか書いた、類似の地名も所々にある。三条には条里の方から来た名が多かろうが、産所または 算所・散所などという文字を忌んで三条と書きかえた淡路の例もあれば、中には問題のサンジョがないともかぎらぬ。また但馬城崎郡や、出雲仁多郡には三所と いうところがある。
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また実際においては必ずしも仮托ばかりでなく、富が出来て来れば自然と貴が附随して来る。奥州の俘囚の長たる頼時は娘を都下りの散位平永衡に嫁して、累代 の蝦夷の酋長はともかくも都人と姻戚の関係を結んだ。頼時の長子貞任はさらに深入りして陸奥権守藤原説貞の娘を妻に申し受けたいと懇望した。
社会に相当の地位を得たものがその家柄をよくしたいというのは古今変らぬ人情で、山子出の炭焼長者も三代五代と経って来るうちには、その祖先についていろ いろの由緒を作り出して、炭焼は炭焼でもただの炭焼ではなかった、もとは由緒あるものの末であったとか、その実何某貴人の落胤であったのだなどと云い出 す。
しかしながらまた一方においては、牛馬の皮革の需要はかなり多かった。その肉もまた無論口腹の慾を充たすに足るものである。捨てられた老牛馬や斃牛馬の皮 革を利用することなく、またその肉を食用に供することなしに、いたずらに腐敗に委することは実際社会的にも不利益な次第である。ここにおいてか社会の落伍 者たるいわゆる屠者の輩は、
かくの如き時代において、もはや人間の用をなさぬ老牛馬の処分の事は、一般民にとってかなり厄介なものであったに相違ない。ここにおいてか牛捨場馬捨場な るものが生じたのだ。家に飼養する牛馬が斃死した場合において、自らこれを処理するの法を知らず、またこれを処理すれば「穢れ」がその身に及んで神に近づ く事が出来ぬというような迷信のあった時代において、
さて、かういふラヂオ文学の特殊技巧以外に、私は、内容的な精神美と作家的な「表現力」を要求する。勿論、放送用としてある程度の普遍性は望ましく、さう かと云つて、大衆向きを標榜する卑俗な趣味は断乎として排斥するものである。 人情を取扱ふのはよろしいが、安価なセンチメンタリズムでは困るし、社会諷刺結構であるが、
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