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小を捨てて大につく
miu بازدید : 24 چهارشنبه 28 خرداد 1393 نظرات (0)

また現にその付近に陵墓がなくても、もと陵墓の付近にいた守戸が、陵墓の荒廃の為に扶持離れがして来る、人口が増して生活に困って来るとなっては、他の村落の付近に移住して、その村の用を足すの賤民となったのも多い事でありましょう。されば後世の夙が、必ずしもことごとく守戸であったとは言えませぬが、本来の夙は守戸で、それは良民であった。それが執る職務が賤しかったが為に、遂に賤民になったというの事実は、否定し難いと存じます。そしてこれは貴賤が必ずしも民族関係の意味からではなく、職業からその区別が生じたという最も好い例だと存じます。穢多頭や穢多寺の住職はもと必ずしも穢多ではありませぬ。非人頭の悲田院年寄、もと必ずしも非人ではありますまい。しかるにそれが穢多や非人の仲間とされてしまったのは、永くその仲間にいたからであります。学者の家として大臣・納言をまで出した菅原氏・大江氏の如きも、もし中頃その職業を改めずして、祖先の土師氏の時のままに、いつまでも葬儀を掌る家であったならば、いつの間にか夙の頭にされてしまったかもしれないのでありますが、早く転職した結果として、祖先以来の名家を辱しめず、さらにこれを立派なものに仕上げたのでありました。同じくシュクと云っても、その職業によって穢多になったのもあります。摂津三島郡に宿河原という皮多村のことが、よく正徳・享保頃の文書に見えておりますが、同じ宿河原でも、同国武庫郡のは後までも夙で、それを守具と書き、後には文字をかえて森具村となっております。思うに三島の夙は、まだ分業の判きりせぬ前に、皮細工をやっていた為に穢多になったのでありましょう。紀伊那賀郡の狩宿も皮多だとの事ですが、これも同じ結果でありましょう。しかし皮細工をやらぬものは、その身が穢れているとの念が少かった為に、穢多とは別派のものとして遺ったのでありましょう。 日本カイロプラクティックドクター専門学院

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